海苔といえば大森
 かっての一大産地
「子どもたちに知ってほしい」

東京新聞 平成13年2月18日(日)朝刊
 海苔(のり)の一大生産地であった大田区大森を歩いた。「海の運章(うんぐさ)と呼んだ時もあったよ」と、かつての海苔漁従事者は言う。有明海の海苔が、今冬、過去に例のない不作だが、この大森も五十年前は、おいしい海苔の産地だったのだ。 (鈴木久美子)

「トントンって音がどこからでも聞こえたよ」平林ツルさん(91)と小林チヨさん(91)は海苔生産で忙しかったころを思い出す。二人とも、浜株を持つ海苔生産の家に生まれた。小学校、高等尋常小学校で同級生だった仲良しだ。
 毎冬一番寒い時期、張った網に海苔が茂る。昭和初めまでは、竹ひびという棒状の仕掛けだったが、網になってぐんと生産量が増えた。
 男たちは一人乗りのべかで海苔を採り、それを女たちがすく。まな板の上でトントンと細かく刻み、井戸水で洗って干す。半農半漁で、ワラの上で干すと、いい仕上がりになったそうだ。形をそろえて東ねると、毎日間屋が買い付けに来た。年に一軒あたり、約三千枚。一家総出で、繁忙期にほ「潮とり」といって干葉から人を雇った。
 小学校の時は、「朝学」を経験した。冬の昼間は働くから早朝、学校が授業をしたのだ。朝四時半に家を出て徒歩約二十分。
 「田んぽばっかりで真の闇(やみ)。提灯(ちょうちん)持って行きましたけど、何かいるんじゃないかってこわかった」

大森が良質の海苔産地だったのは「多摩川、目黒川、荒川と、河川の水がいい肥料(栄養分)を運んで海水とプレンドしたからです」と、海苔漁に従事していた茨田秀利さん(61)は話す。
 遠浅の干潟で穏やかな内海。「柔らかくて薄いいい海苔ができる条件がそろっていたのです」
 1700年代から続く海苔生産を支えたその条件は、あっという間に崩された。第二次大戦前の軍需景気で工場排水のたれ流し。
 これは戦争が終わってみたら、きれいな水に戻って漁は続けられた。昭和三十年代になると今度は経済成長で、工場排水による汚染。さらに、東京港や空港の埋め立て、首都高速道路建設。昭和三十八(一九六三)年、海苔漁従事者は漁業権を放棄。生産は止まった。

 「陸(おか)が変われば海も変わる。自然の草はよけることはできないね」

「大森海苔問屋街」
 一昨年春、誕生したホームぺージだ。産地でなくなっても、残る問屋約八十軒のうち十八軒が共同で、手作りした。
 「海苔といえば大森って思い浮かぶようにね。秋葉原の電気街のように」。参加している岩波明彦さん(40)は言う。大森の海苔の歴史や、町の地図など盛りだくさん。更新も早い。
 有明海の海苔不作で平均三割ほど高値の今年。「問屋が我慢すれぱ一年は、小売りに影響は出ませんよ。これも海苔屋の宿命か、と思っています」
 平林さんや小林さんらはかつて通った小学校でこの十八年間、子どもたちに海苔すきを教えている。
 「子どもたちにはね、知っていてほしいですね」