絶えた特産、歴史伝える
朝日新聞  平成11年7月3日
海苔屋。海苔を売る店ではない。養殖業者を、そろ呼ぶ。
大田区の大森や羽田を中心にした東京港沿岸は、全国有数の海苔の生産地だった。高度成長期。東京五輪を控え、東京港の整備計画が持ち上がり、1963年春、三百年にわたる東京の海苔養殖の歴史に、幕が下りた。
それから三十年後に、大森沖で海苔を育てた人がいる。品川区大崎三丁目、浮田丈男さん(66)もだ。91年春、大田区立中富小学校に嘱託職員として着任、海苔の資料館開設を担当した。寄贈された資料を整理し、地域歩き道具を集めた。
 海苔を育てようと思ったのは、嘱託最後の年だった。海苔屋だった人を訪ね、種付けを習った。愛知県常滑市へ行き、種の付いた網ヒピをもらってきた。
 都に許可をもらい、大森沖に「浮流し式しで網ヒピを張った。年が明けると、いい海苔ができた。子供らに海苔が生えている様子や滴み取り作業を見せることができた。
 そんな浮田さんの自慢の収集品の一つに、大学ノートに書かれた日記がある。
 二月二日 北後南東の風晴 十五日潮
 今朝は一時に起きるつもりを、二時までねすごしてしまった。 (中略)五時ごろが一番ねむい。とても目があいていられない。
 日記を書いたのは、大田区木森東五丁目でプラスチック工場を営む鳴島兼雄さん(65)だ。当時、二十一歳だった。
 八歳のとき、父親は海苔を取りにいった海で亡くなった。十四歳で伯父の下へ修業に出た。十七歳で独立した。
 教えてくれる父親はいない。役に立つかもしれないと、ノートをまくら元に置いて、布団の中でえんぴつを手に書いた。
 海苔は種付けが難しい。年によって水位が微妙に変わり、種付けの位置は違ろ。
 「明くる日の保証はしてくれない」
 海苔を育てるときも、真水一が多いと、バサバサになる。逆に、海水が多けれは、黒くて硬くなる。
 「とにかく働いた」と、鳴島さんは振り返る。
 海苔屋の仕事は冬が厳しい。眠くなったら、外に置いた水で顔をぬらし、海苔を抄いた。-雨が降れは、乾燥場に石炭ストープをつけて抄き終わった海苔を乾かした。生海苔が取れないときは、ほかから仕入れて手間賃を稼ぎ、日雇いの仕事にも出た。
 楽ではなかった。だからこそ、地域との一体感があった。そんな時代だった。
 橋本茂雄さん(64)は、20歳で漁業権を放棄した。海の道具を見るのがいやで、ほとんどの道具を処分した。
 20年ほど前、区立郷土博物館で年に一度、海苔抄きの体験学習が始まった。後に、博物館から指導を頼まれ、子どもに教えるというので引き受けた。
 いまでは、海苔抄きが終わらほいと正月を迎えた気がしない。数年前、長男を誘ったら、学習会の手伝いに来てくれるのが、ろれしい。
 大田区の小学校では、十年ほど前から「ふるさと学習」として海苔抄き体験を採り入れる学校が出てきた。鳴島さんは、中富小をほじめ四、五校で指導している。
 浮田さんは、学校を離れた後も同小を訪ね、体験学習に参加している。
 梅苔抄きの技術とともに、海苔屋だった人が贈ってくれた道具や資料を通して、海苔作りの苦労や海苔への思いが子どもたちに伝われば。浮田さんは願う。 (寺崎-省子)

 大田区 1947年(昭和二十二年)、大森区と蒲田区が合併じて誕生した。両区から一字ずつとって「大田」と名付けられた。現在の人口は約六十四万人。面積は二"十三区で)番広く、里示で育数の工場町でもある。区立郷土博物館の「大森及ぴ周辺地域の海苔生産用具」は93年、国の重要育形文化則に指定されたo