浅草海苔の生育環境は、適度の潮の干満と、遠浅で波静かな海面、それに栄養分を多量に含んだ河口の汽水域を最適とします。その点、隅田川や多摩川・江戸川と言う河川が流入し、沿岸の大部分が水深5メートルより浅い「州」と呼ぶ干潟の広がる江戸前の海岸は、その条件を十分に満たしていました。
大森うまい海苔物語
浅草海苔って  浅草海苔ってよく聞くけどいったいどんな海苔を浅草海苔と言うのでしょうか。海苔屋さんに聞いてもよく解りません。それもそのはずで、浅草海苔のいわれにはいろいろな説があるのです。
@昔、入り江になっていた浅草界隈で、この海苔が採取された。
A品川大森で採取した海苔を、浅草で製造した。
B品川大森で採取製造した海苔を浅草で販売した。
C乾し板状の浅草海苔の製法と形状が再生紙の浅草紙の製法が良く似ていた。
このうちAとBがもっとも有力視されています。
うまい海苔は
大森だ
 江戸前の風味豊かな海産物である乾し海苔は、江戸時代将軍家やその菩提寺の寛永寺、紀伊・尾張・水戸の徳川御三家に納入されました。御膳海苔は清浄な海で産する最上品であるから、これを扱う商人と産地は、権威と名誉を誇っていました。そしてその多くを当時の大森村が担っていました。そしてその伝統はその後も長く引き継がれ、明治に入ってからも東京府下で海苔漁業に従事できたのは、品川・大飯・大森・糀谷のみで、その中でも大森が特に大規模な漁場の許可を得て、特別の待遇を得ていました。
日本の海苔は
大森から広がった
 東京湾の大森周辺の海苔養殖技術が全国に伝播し、太平洋岸にいくつかの海苔の生産地を生み出したのは、江戸時代後期でした。それらの産地へは大森から直接、あるいは間接に伝播しているが、それに係わったのは、大森の生産者と信州諏訪の海苔商人でした。冬期の出稼ぎとして江戸へ出て、大森から海苔を仕入れ、江戸市中各街道筋を行商したのです。その諏訪商人が東海道筋を往来するうちに、海苔生産に適した波静かな入り江を見出し、新たな海苔仕入れ産地を興そうと、大森から生産技術のある者を伴ったり、招かれたりもしたとのことです。今でも、全国の海苔商人には諏訪出身の人が多いのはこのためです。
大森の海苔が
消えちゃった
 埋め立てにより、漁業権を放棄し、海苔生産の灯が消えてしまったのは昭和37年12月のことです。東京オリンピックのちょっと前のことでした。海苔小屋が工場になったり、海苔干し場にアパートが建ったりと大森界隈の風景は一変しました。沖合いは埋め立てられ京浜島・城南島・昭和島となり、工場団地や公園が新しく出来たり、モノレールや高速道路が出来ました。
そして大森が残った  大森の海苔生産の灯は消えても、全国的には海苔の養殖技術の発展により、生産量は増え続けました。そして大森の人達の海苔へのこだわりも強く残り、昔の大森の海苔を知る人達は「本当に大森の海苔は美味かった」としみじみといいます。今はその本当の海苔の美味さを知っている大森の海苔商人たちが、美味い海苔を求めて、全国を飛びまわっています。